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その日は、グループ全体の役員会議があった。智臣に同行し、30階の大会議室へ向かう。
エレベーターに乗り込むと、智臣はいつものように反対側の壁際へ立った。最上階から二人きりで下降するこの短い時間は、今でも少し緊張する。
エレベーターのドアが閉まり、静かな空間に二人の呼吸だけが残った。エレベーターが二十五階を過ぎた頃だった。
ふわりと、どこからともなく甘い香りが漂った。
(誰か乗ってた……? いや、この密室にいるのは、俺と社長だけ。じゃあ、この香りは——)
俺は眉をひそめて、小さく首を傾げた。智臣が香水をつける人間ではないし、このエレベーターに他の人が入ってきたわけでもない。
(――違う。この匂いは、俺自身から漂っている!)
自分の匂いを意識したその瞬間、胸の奥が熱を帯び、首筋がじんわりと火照り始めた。体温が上がっているのが、はっきりとわかる。
それは欠陥オメガの俺が、ほとんど経験したことのない感覚だった。
(くっ……熱い)
息が少し乱れそうになるのを、必死に堪えた。指先がわずかに震え、甘い香りがさらに強くなった気がする。
しかし、それもほんの十秒ほどのことだった。不思議と香りはするすると引いていき、体を包んでいた熱も潮が引くように消えていく。まるで何事もなかったかのように、平常心が戻ってきた。
俺はそっと息を吐き、智臣の様子を横目で窺った。智臣は正面のフロア表示を見つめたまま、全く微動だにしない。表情はいつも通り冷たく整っており、何も気づいていないように見えた。
だが、ネクタイを直す右手だけが一瞬だけ止まり、彼の視線が俺の方へ動いた気がした。それは鋭く、探るような視線だった。
しかし、智臣は何も言わなかった。エレベーターのドアが静かに開き、30階に到着する。智臣は無言で先に歩き出し、俺は慌ててその後に続いた。
会議中も、時々自分の体調を気にした。さっきの異変は、本当に短かった。ヒートというには弱すぎるし、すぐに治まった。
ただの気のせいか、疲れが溜まっているだけかもしれない。
それでも智臣の隣に座っているだけで、胸の奥に小さなざわつきが残っている気がしてならなかった。
智臣は会議を淡々と進行させ、俺の存在など気にも留めていない様子だった。資料を要求するときも、指示を出すときも、いつもの事務的な声だけ。 何も、変わらない。
会議が終わり、再びエレベーターで最上階へ戻る頃には、俺の体は完全に平常に戻っていた。
あの甘い香りも、一瞬で上がった熱さえも、なかったことにされたかのようだった。
しかし、これは紛れもない「最初の異変」だった。
智臣は何も言わなかった。ただ、必要以上に俺から距離を取り、いつものようにクールに振る舞い続けただけだった。
その沈黙が、俺の中に芽生えた小さな違和感を、静かに、しかし確実に育てていくことになるなんて——この時点では、まだ想像もしていなかった。この日を境に、俺の体は少しずつ変わり始める。
誰にも気付かれないまま。ただ一人、智臣だけを例外として。
***
その日の夕方、役員会議が終わってから間もなくだった。
智臣が執務室に戻ると、秘書長の井上がすでに待っていた。いつもの穏やかな表情のまま、しかし瞳の奥にわずかな憂慮を湛えている。
「社長、少しよろしいでしょうか」
「入ってくれ」井上はドアを閉め、智臣のデスクの前に立った。報告書を一枚手に持ちながら、静かに切り出した。
「九条さんの体調は、いかがですか」
智臣は手を止め、ゆっくりと井上を見上げた。眼鏡の奥の瞳は、相変わらず感情を読み取りにくい。
「……本人は気付いていない」
それは、短い返答だった。井上は小さく息を吐いた。
「やはり……ですか。おふたりが降りた後にエレベーターを使ったのですが、あの短い時間に、九条くんのフェロモンがわずかに反応していたのでしょう。甘い香りが、ほんの少しだけ漂っていました」
智臣はデスクに肘をつき、指先で軽くこめかみを押さえた。
「進行が早い」
低い声で、そう続けた。
井上は眼鏡を押し上げ、慎重に言葉を選ぶ。
「それは99.9%だから、ということでしょうか……」
「ああ」短い返答に、井上は静かに息を吐く。
「過去に、99.9%の症例は?」
「ない」 「記録上も?」 「一件もない」執務室に沈黙が落ちた。
欠陥オメガが、SS級アルファの近くにいるだけで反応を示す。その進行速度も、最終的にどこへ行き着くのか、誰にも分からない。
智臣は静かに目を伏せた。
「本人はまだ、自分の変化を『気のせい』だと思っている。今日もすぐに収まった」
「社長はどうされますか? さらに距離を置かれますか?」井上の問いに、智臣はすぐに答えなかった。
しばらくの間、執務室に重い静けさが満ちる。窓の外では、夕陽がゆっくりと沈み始めた。
やがて智臣は、低く抑えた声で答えた。
「まだ、早い」
その言葉には、複雑な感情が込められていた。アルファとしてオメガの湊を自分のものにしたいという強い欲求と、それと同じくらい強い自制心。99.9%の相手を不用意に刺激すれば、制御できないヒートを誘発する可能性がある。
そして智臣自身も、その影響を強く受けてしまう。
井上は深く頷いた。
「わかりました。……ただ九条くんは、とても真面目に仕事に取り組んでくれています。あの若さでここまで短期間に業務を覚えるのは、正直驚きました。社長が選ばれた理由が、よくわかります」
智臣は真顔のまま、返事だけを返す。
「当然だ」
井上は軽く頭を下げ、執務室を退出した。
一人になった智臣は、ゆっくりと息を吐いた。机の上に残る、湊がまとめた報告書。そこにわずかに残る甘い残り香を、智臣は静かに指でなぞった。
進行は予想より早い。だからこそ、予定を前倒しにする必要がある。九条湊本人が気付く前に、すべて整えておかなければならない。
その日の仕事が終わったのは、19時半を過ぎた頃だった。 重い身体を引きずるように会社ビルを出る。微熱と倦怠感は、まだ残っていた。 首筋の疼きも、夕方から少しずつ強くなっている。(早く帰って休もう……) そう思いながら駅へ向かって歩き出した、その時だった。 会社の正面玄関前に、一台の黒塗りの高級車が静かに停まっていた。 見覚えのある車だったことに、胸の奥がざわつく。 まさか――。 後部座席のドアが、ゆっくりと開く。降りてきたのは、長兄・九条蓮だった。 端正な顔立ちに、相変わらず感情の読めない笑みを浮かべている。「久しぶりだな、湊」 その一言だけで、全身の血の気が引いた。 逃げなければ――そう思うのに、足が動かない。 兄さんは呆然と立ち尽くす俺を見つめたまま、車へ向かって静かに頭を下げた。「父上」 その呼びかけだけで、心臓が一瞬で凍りつく。 九条家の当主である父・怜司が、ゆったりとした動作で車から降りてきた。父は穏やかな笑顔を浮かべながら、俺を見つめた。「元気そうじゃないか、湊」 俺は完全に固まってしまった。指先が冷たくなり、書類鞄を持つ手が震える。喉が塞がったように声が出ない。 数ヶ月ぶりに見る父と兄の顔が、悪夢のように現実味を帯びて迫ってくる。(……どうして) ここにいるはずがない。勘当されたはずの自分が、九条家の人たちに会うはずがない。 しかし現実は、冷たく目の前に立ちはだかっていた。 父が一歩近づき、優しい——しかし底冷えのする声で言った。「少し、話がしたいんだが……いいだろう?」 俺は一歩も動けなかった。逃げたいのに、身体は熱に縫い止められたように動かない。 九条家はついに、俺の前に姿を現した。 湊を見送るため、エントランスの窓際から、智臣は静かに外を見ていた。 夕暮れの薄闇の中、一台の黒塗りの高級車が会社の正面玄関前へ滑るように停まる。後部座席のドアが開き、降り立った人物を確認した瞬間、智臣の瞳が細められた。「……来たか」 低い声がその場に落ちる。智臣は片手で窓ガラスに触れ、冷たい表面に指を這わせた。 眼鏡の奥の視線は鋭く、玄関前に立つ三人の姿を捉えている。 九条怜司と九条蓮。そして、その前で立ち尽くす湊。 智臣はゆっくりと拳を握る。胸の奥が、異様にざわつく。理由は分からない。ただ一つだけ
朝の執務室は、いつもより重い空気に包まれていた。 智臣がデスクで書類に目を通していると、ノックもそこそこに井上が入室する。彼の表情は普段より硬く、声もわずかに緊張しているのが目についた。「社長……九条家のご当主とご長男がお見えです」 智臣の指が、書類の端で止まった。一瞬の沈黙の後、彼は静かに立ち上がった。(――とうとう来たか) 内心でそう呟きながら、智臣の瞳は冷たい光を帯びた。 井上は心配そうに続けた。「応接室にご案内していますが……どうされますか?」「会う」 智臣は短く答え、ジャケットの襟を整えた。 九条家がついに動き出した——仕組まれた運命の、最初の本格的な衝突が。 応接室の重厚な扉が開くと、そこには二人の男が待っていた。 九条 怜司——湊の父であり、九条家の当主。端正な顔立ちに冷たい微笑みを浮かべ、ゆったりとソファに腰を下ろしている。その隣には長男の蓮が、恭しく控えていた。 智臣は静かに部屋に入り、向かいのソファに座った。表面上は、両者とも穏やかな笑みを浮かべている。しかし、部屋に流れる空気は張りつめ、目に見えない刃が交錯した。 そんな緊張感が漂う中、怜司が先に口を開いた。「突然お邪魔して申し訳ありません、一ノ瀬社長。湊の様子を見に来ました」 智臣は落ち着いた声で返す。「秘書として問題なく勤務しています。ご心配には及びません」 怜司の笑みが、少し深くなった。「親として心配でしてね。勘当したとはいえ、血を分けた息子ですから」 智臣の瞳が、わずかに細まる。「勘当されたのでは? 親としての権利は、すでに放棄されたものと理解していますが」 一瞬、応接室の空気が凍りついた。怜司は笑顔のまま、静かに口を開く。「血は争えません。湊が一ノ瀬グループでどれだけ貢献できているか、確認したく思いまして」 智臣は表情を変えずに、淡々と答えた。「九条湊は優秀な秘書です」 怜司の目が、わずかに鋭くなった。「優秀ですか。湊もようやく、社会人として落ち着いてきたようですね」「彼は私にとって、必要な人材です」「それは結構なことです」 智臣の指が、膝の上でわずかに動いた。二人の視線が、正面からぶつかり合う。 怜司は優雅に微笑みながら、しかし底冷えのする声で言った。「親として、息子の幸せを願うのは当然のことでしょう?」 智臣は静
*** その夜、湊はアパートのベッドで目を覚ました。 時計の針は午前二時を指している。部屋は暗く、ただカーテンの隙間から入る街灯の光だけが、ぼんやりと床を照らしていた。 身体が、やけに熱かった。額に浮かぶ汗を拭おうと手を上げた瞬間、首筋に鋭い疼きが走った。 まるでそこに熱い鉄を押し当てられたような、甘く苦しい感覚。下腹部にも、じんわりと疼きが広がっていく。 息を荒くしながら上半身を起こし、ベッドの端に座った。 シーツが、甘い香りで満ちていた。自分の体から発せられる、濃厚で柔らかいフェロモンの匂い。 これまでほとんど感じなかったものが、今ははっきりとわかるほど強くなっている。「……っ」 自分の首筋に手を当て、震える息を吐いた。(違う……そんなはずない) 欠陥オメガの自分に、本格的なヒートなんて起こるはずがない。 そう思おうとするのに、首筋の疼きも身体を満たす熱も、それを許してくれなかった。 熱が引かない――胸の奥がざわつき、頭がぼんやりとして、思考がまとまらない。 夜ごと繰り返されるこの症状は、もう「風邪」などという生易しいものではなかった。 初めて、自分の異変を正面から認めた。「俺……やっぱり、おかしいかもしれない」 掠れた声が、暗い部屋に小さく落ちた。 欠陥オメガの自分が、まさか本格的なヒートを迎えようとしているなんて。それも、一ノ瀬智臣という運命の番の影響で。 膝を抱え込み、額を膝の上に押し付けた。智臣の顔が、脳裏に浮かぶ。 冷たい視線。距離を置く後ろ姿。それでも、定食屋で向かい合って食べた夕食。初めて名前を呼ばれた夜――あの一瞬だけ見せてくれた優しさ。(……もう、社長の傍にいちゃいけないのかもしれない) 自分の体が、智臣の存在に反応して熱を発している。このまま傍にいれば、きっと迷惑をかける。もっと、もっと大きな負担を。 そんなことを考えながら、唇を強く噛んだ。目頭が熱くなり、涙がこみ上げてくるのを必死に堪える。 夜の静けさの中で、初めて自分の体が「抗えない熱」に飲み込まれ始めていることを、はっきりと自覚した。(――社長から離れなきゃ) その思いだけが、熱に浮かされた頭の中で静かに形を成していく。それが自分にも、社長にも一番いい選択なのだと信じながら。*** 翌朝。熱は少し下がっていた。夜中はあれほど苦
あれから一週間が経った。俺の体調は、明らかに悪化の兆しを見せ始めていた。 夜だけだった熱が、昼間にも微かにぶり返すようになった。朝起きた時点で既に体温が少し高く、午後になると額や首筋がじんわりと熱を持つ。 フェロモンの香りも、抑えきれなくなっていた。 抑制剤を多めに飲んでも、甘く柔らかい匂いが時折ふわりと周囲に漂う。 それでも、自分に言い聞かせていた。(……これはただの風邪、季節の変わり目で体調を崩しただけだ) そう思い込むことで、現実から目を逸らしていた。 会社では、その異変が誰の目にも明らかになり始めていた。 午前中、コピー機の前で資料を待っている最中、突然立ちくらみが襲ってきた。視界がぐらりと揺れたことで、慌てて機械に手をつく。足元がふらつき、膝に力が入らない。「九条くん、大丈夫?」 近くにいた女性社員が、心配そうに声をかけてきた。「……はい、大丈夫です。ちょっと貧血気味みたいで」 無理に笑顔を作って誤魔化した。 午後には階段でふらついた。二階から三階へ上がる途中で足がもつれ、危うく転びかけた。抱えていた書類が数枚、階段に散らばる。 通りかかった男性社員が慌てて拾ってくれたが、明らかに心配そうな顔をしていた。「顔色悪いよ? 本当に大丈夫?」「ありがとうございます。少し寝不足で……」 また笑って誤魔化す。その笑顔は以前より明らかに無理をしているのが、傍から見てわかってしまうだろう。 夕方近く、また書類を落とした。智臣に提出する重要な報告書の束が、デスクの上で滑り落ち、床に散乱する。拾い集めながら、唇を強く噛んだ。(……どうして、最近こんなに調子が悪いんだろう) 熱は微熱なのに、身体が重い。集中力も続かず、ちょっとした動作でふらつく。そして、体から漂う甘い香りを、自分でもはっきりと感じるようになった。 欠陥オメガの自分が本格的なヒートに近づいているなど、まだ考えたくもなかった。 床に散らばった書類を拾い集めながら、小さく笑った。「……まだ、大丈夫」 誰に言うでもない、掠れた独り言。その言葉は、自分自身を安心させるための呪文。けれど、その声にはもう力がなかった。*** 執務室のガラス越しに、その姿を見つめる男がいた。智臣は手にしていたペンをゆっくりと置き、静かに目を伏せる。 また、ふらついた。今日だけで三度目だ
*** その日の午後、重要書類を智臣に届けるため、役員フロアへ向かっていた。 廊下の角を曲がろうとした、その時だった。役員たちの話し声が聞こえ、思わず足を止める。 壁越しに聞こえてきたのは、智臣の声だった。壁に貼りつくように体をくっつけながら、そっと覗き見る。「社長、どうして九条を外さないのです?」 常務の一人が、不満を隠そうともせず問いかける。「最近のミスは目に余ります。このままでは会社の信用にも関わる」 その場にいる他の役員たちも小さく頷いていた。 俺は書類を抱えたまま、その場で息を潜める。(……社長) 胸が嫌な音を立てたとき、智臣は少しだけ間を置いて答えた。「99.9%だからだ」 静かな一言だった。その言葉だけで、役員たちが黙る。 智臣は表情一つ変えずに続けた。「現時点で彼を外す理由はない」「99.9%の適合データは、今後の経営判断にも影響する。軽々しく動かす案件ではない」 役員たちは互いに顔を見合わせる。「なるほど……そういう判断ですか」「理解しました」 それ以上、反論は出なかった。 話題は別の案件へ移っていく。 しかし、俺の耳には――『99.9%だからだ』 その一言だけが、何度も何度も反響していた。(……やっぱり) 胸の奥が、音を立てて冷えていく。 社長が自分を傍に置いてくれているのは、俺だからじゃない。99.9%という数字だから。 病院で助けてくれたことも。定食屋で食事に誘ってくれたことも。名前を呼んでくれたことも。 全部――運命の番だから。 それ以上の意味なんて、なかった。(……俺は) ただの九条湊じゃない。99.9%という数字のついた、"適合データ"でしかなかったんだ。 書類を抱える指先が震え、目頭が熱くなった。 泣くわけにはいかない。それでも、胸の奥が張り裂けそうに痛かった。*** その夜、俺はアパートのベッドに座ったまま、膝を抱えていた。 部屋は暗く、街灯の光だけがカーテンの隙間から差し込んでいる。 今日、廊下で耳にした智臣の言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返されていた。『99.9%だからだ』 たった一言、それだけで十分だった。 告げられたセリフを思い出し、小さく息を吐きながら力なく笑う。 それは、自分を納得させるための笑みだった。(……そうだよね) 社長が俺を
退院から二週間が経過した頃、湊の体に再び異変が訪れ始めた。 昼間は、なんとか平常を装えていた。 仕事中は集中力を振り絞り、一つでも失敗を減らそうと必死だった。以前のように迷惑をかけたくない。その思いだけで、どうにか一日を乗り切っている。 しかし、夜になると決まって高熱がぶり返すようになった。 アパートの狭い部屋でベッドに横になると、じんわりと体温が上がっていく。 首筋や胸の奥が熱を持ち、微かな疼きが波のように押し寄せては、静かに引いていく。 フェロモンの香りも、以前より明らかに濃くなっていた。 枕やシーツに移った甘い香りに気づくたび、小さく眉を寄せる。「……こんな匂い、前はしなかったのに」 ぽつりと零した声は、静かな部屋に吸い込まれていった。 布団を抱き寄せ、額の汗を手の甲で拭う。(……まだ大丈夫) そう、自分に言い聞かせる。 病院では「過労とストレス」だと言われた。 だから、これは疲れが抜け切っていないだけ。少し休めば、また元に戻る。 そう信じたかった。 欠陥オメガの自分が、本格的なヒートを迎えるなど、考えたくもない。 考えた瞬間、それが現実になってしまう気がした。 夜だけ熱が出る。朝になれば、不思議なくらい何事もなかったように熱は引く。だから、仕事は続けられる。まだ、大丈夫――そう思い込もうとしていた。 けれど、体は正直だった。 智臣のことを思い浮かべるだけで、胸の奥が小さくざわめく。 あの定食屋で向かい合って食べた夕食。「無理をするな」と静かに告げられた声。 そして、帰り際に初めて呼ばれた自分の名前。『……湊』 その一言を思い出しただけで、胸の奥に熱が灯る。鼓動が少しだけ速くなり、首筋にじんわりと熱が集まっていく。(違う……) これは病気のせいだ。社長のことを考えたからじゃない。 そう否定すればするほど、熱はゆっくりと全身へ広がっていく。 布団の中で膝を抱え、小さく息を吐いた。「……まだ、大丈夫」 誰に聞かせるでもない、小さな独り言。 それは自分を安心させるための言葉ではなく、崩れそうになる心をどうにか繋ぎ止めるための、儚い呪文だった。 その後の智臣の態度は、ますます冷たく、徹底したものになっていった。 朝の送迎は、完全に取りやめになった。 以前は同じ車で会社へ向かうこともあったが、今で







